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遠つ人松浦佐用比賣夫恋いに領巾振りしより負へる山の名(万葉集巻五871)
海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫 (万葉集巻五874)

宣化天皇二年(537年)、朝廷の命を受け、隣国の新羅に侵略されていた朝鮮半島 の任那、百済を救援するための兵を率いて唐津へとやってきた大伴狭手彦(おおとも のさでひこ)は、出陣のための軍船の建造や準備の為にしばらくここ唐津に留まり、 その際、篠原長者の館に滞在することにしました。篠原長者には、佐用姫というとて も美しい娘がおり、佐用姫が挟手彦の身の回りの世話をするうち、二人はお互い惹か れ合って恋仲となり、やがては夫婦の契りを結びました。

 やがて軍船は出来上がり、いよいよ船出の日となりました。別れのとき、挟手彦は 佐用姫に「これを私と思って待っていて欲しい」と言って、銅の鏡を手渡しました。

そして、狭手彦の乗った船は松浦の港を出港。佐用姫は玄界灘を見渡す山(鏡山:唐 津市浜玉町〜鏡)に登り、遠ざかり行く狭手彦の船に領巾(ひれ)を振りつづけまし た。(この山は別名、領巾振山と呼ばれるようになりました)

船が遠ざかるにつれ、狭手彦を慕うあまり船を追って山を駆け下りた佐用姫は、栗川 (唐津市久里(くり)、松浦川)を一気に飛び渡り、川岸の岩(佐用姫岩:唐津市和 多田)に飛び移りました。しかしその時、狭手彦からもらった大事な銅の鏡の緒が切 れ、鏡は川に落ち川底深く沈んでしまいました。(このあたりは「鏡の渡り」と呼ば れていました)

しかし佐用姫は、遠ざかる船をさらに追い、途中、川で濡れた衣を乾かし(衣干山: 唐津市西唐津)、呼子の浦まで追いかけ、最後に加部島の天童山に登って船の影を探 します。しかし海原にはすでにその姿は見えず、佐用姫は悲しみのあまり七日七晩泣 き明かし、とうとう石になってしまいました。
〜肥前風土記・民間伝承〜

※佐用姫物語にはいろいろな説がありますが、佐用姫が石になるこのお話が、唐津で 口伝えに伝えられているいちばん馴染み深いお話です。

物語にもあるように、唐津には佐用姫物語にちなんだ地名やいわれなど、多く残って います。

  • 佐用姫生誕地:数箇所言い伝えられていますが、「篠原村」と呼ばれる佐用姫生 誕地としては、「厳木町瀬戸木場(長者原)」説、七山村史に残っている「七山 藤川 (芝原)」説、浜玉町史に残っている「浜玉町平原 座主」説の3つが有名です。
  • 長者原(厳木町):篠原長者の館があったと言われ、生誕の碑が建立されていま す。
  • 姫小路(浜玉町):鏡山を登る小道で、佐用姫が狭手彦に会うために通った道と いわれています。
  • 殿原寺(浜玉町):佐用姫が住んでいた屋敷があった場所、といわれています。 観音堂には、平安時代に作られた六体の観音像があり、狭手彦の出兵を嘆いて病にな り亡くなった佐用姫をしのんで、庭の椿で彫られたといういいつたえがあります。
  • 田島神社(呼子町):境内にある佐用姫神社には、佐用姫が石になったといわれ る望夫石が祀られています。佐用姫神社は縁結びの神として尊崇されるようになって います。
  • 蛇池(鏡山山頂):肥前風土記では、佐用姫は石になるのではなく、この池で亡くなったとされています。
  • 恵日寺(鏡):本尊の観音像は大伴狭手彦が朝鮮から持ち帰り、佐用姫の供養のために安置したものといわれています。

今と違い伝達手段もなく、もしかしたら2度と会えないかもしれないと、佐用姫は思っ たのでしょう。風光明媚な松浦の地で、二人で見た景色、二人の想い出があまりに美しすぎて、独りであることに耐えきれなかったのかもしれませんね。

 
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